当時J2のロアッソ熊本に入団。
私が入団時、藤田俊哉、木島良輔など有名なベテラン選手の多いクラブでした。
入団当時は非常にフレッシュで気持ちも非常に前向き、初キャンプでもヘディングで負ける事はなく気持ちの乗ったプレーができていました。
熊本の新聞には鳥人入団と書かれ浮かれていた事も覚えています。
不安である体力面、足元の技術等の短所はあまり露呈されず自信を持ってプレーしていました。
このままいけば開幕戦スタメンに入ることができると思っていました。
しかしキャンプ最終日ジュビロ磐田との練習試合で足首を怪我してしまい開幕戦には間に合わずメンバー入りすることができましたが、スタメンにはなれませんでした。
そこから自分の中で少しずつフレッシュ感もなくなっていき自分の短所の部分も露呈し始めました。
スタメンからはどんどん遠のきプロになれたと言う目標を達成できたからか高いモチベーションでプレーすることができていなかったと思います。
サッカーがうまくいかないのに夜遊びをし酒を飲みパフォーマンスが上がらない。
当時試合には出ていませんでしたがサイン会やトークイベントなどへの参加はしておりプロになれたことを勘違いしていた自分がいたと思います。
熊本で2年間3試合の出場、戦力外通告を言い渡されました。
プロになれた当初、周りの仲間から山下プロになってすごいねと言われたことを覚えています。
クビになったときすごく恥ずかしい気持ちになりました。
プロになったことに浮かれ結果も残せず2年間で引退の危機。
他のクラブから移籍の話はなくチーム探しも非常に困難な状況でした。
JFL等のチームからはお話はありましたが、アマチュア契約と言うことで仕事をしながらサッカーを続けると言う事でした。
そんな時シンガポールのクラブからお話をいただきました。
家と食事は用意されてありますが、月の給料は50,000円程度。
それでも私はサッカーでご飯を食べる、プロでいる事に拘りました。
そうでなければかっこ悪いと思ったからです。
シンガポールリーグでは日本よりレベルが低く自分でも活躍ができるという自信がありました。
そのチームの監督はボールをつなぐことへのこだわりが強く、止めて、蹴る基本の部分をチームに求める人でした。
私はその監督の下、自分の苦手だったボールをを繋ぐという部分の楽しさを教えていただきました。
それからは試合に出てもボールが来ることを全く不安を覚えることがなく自信を持ってパスを出しボールを受けることができたと思います。
もちろん日本よりレベルが低い分プレッシャーのスピードなども違ったのでボールを繋ぐ楽しみを知る上で、私にとっては良い環境だったのかもしれません。
ただ給料は50,000円。
それではプロとは呼べない。
そこで知ったのが海外で外国人枠として自分がプレーすると言うこと。
助っ人外国人になれば給料が跳ね上がると言うことでした。
私がシンガポールで1番初めにいたクラブは日本人だけのチームで特別な枠でリーグに参加していました。
ですので外国人枠と言う形ではなく1日本人プレイヤーとしてプレーしていました。
そこから他のチームに外国人枠として移籍することで給与も上がるという事になります。
翌年、外国人選手としての移籍が叶いしっかりと生活できる給料月40万円、家付きという条件をもらいプロとして選手を続けられるようになりました。
シンガポールでは合計5年間プレーしました。
リーグ優勝も経験できましたし、AFCカップという形でアジアの大会にも出場することができました。
シンガポール5年目、クビになり行くチームがなくなりました。
この頃私にとってプロの認識が変わっています。
しっかり生活できるお金を稼げないとプロではないと認識していました。
当時の私の実力ではJリーグに戻れたとしても今以上の給料を稼げる事はないと判断していました。
ちなみにJ2熊本時代もらっていた給与額は年収240万円。
生活がいっぱいいっぱいの金額でした。
ですので、私が目指したのは東南アジアで外国人選手としてプロを続ける。
年収1000万円を超える事になっていました。
シンガポールでいけるチームがなくなり、ほかの国を考えなくてはいけなくなりました。
シンガポールは生活面において、街も綺麗で治安も良く日本人にとっても非常に住みやすい国でした。
しかし他の東南アジアの国と言うのは衛生面があまり良くなくインフラが整ってない。
水が出ない、電気が止まる、治安もあまり良くないなどの話を聞いていました。
不安はありましたが、他の東南アジアに行く決意をします。
サッカー選手で居続けるために。
そこでお話をいただいたのがミャンマーのクラブと契約をさせていただきました。
蛇口をひねれば茶色い水、1日必ず一回の停電。
しかしそのクラブでは月50万、家付きと言う契約内容です。
私の中ではしっかりとしたプロサッカー選手であると思えるクラブでした。
またミャンマーには日本人がシンガポールほど多くはなくチーム内にいるブラジル人選手3人といる時間が長くなりました。
日本語を話す事が減り、この時英語も上達したと思います。
しかし日本語を話せないのはストレスがあり、よく日本人の選手などに連絡をしていました。
このクラブも前年度のチャンピオンクラブで、AFCの出場権を持っていました。
勝ち進み、タイのクラブに勝てば、FC東京とAFCチャンピオンズリーグで対戦する事ができる事になりましたが、惜しくもタイのチームに延長で1-0で負けてしまいました。
悔しく思っていましたが、私達が負けたタイのチームはFC東京に9-0で負けていました。
内心いかなくてよかったかなとも思いました…笑
やはり日本のレベルは高いと再認識しました。
ミャンマーでは1年でクビになり、またチーム探し。
オフシーズン、他のクラブからオファーを待ちましたがどこからもオファーはなく3ヶ月が過ぎました。
ここからは自分で動いてチームを見つけるしかありません。
東南アジアでプロを続けるには、経歴、動画をチーム送り興味を持ってもらいトライアルに参加するか直接オファーをもらうかという形が多いです。
またチームと選手を繋げる代理人が存在し、代理人を活用することもよくあります。
オファーがなかったので、まずは興味を持ってくれたカンボジアに飛びました。
1週間で契約の話に至りましたが、月20万円という事だったのでお断りする形になりました。
次にタイのチームから話があり、タイに飛びました。
しかし結局どこのチームからも練習参加の許可がおりずチームは決まりませんでした。
次に全く知らないFacebookから連絡してきたマレーシア人の自称代理人からマレーシアのクラブが私に興味を持っていると言われ、藁にもすがる思いでマレーシアに行きました。
空港には誰にも迎えに来ず、空港から言われたスタジアムに直接向かいました。
するとそのチームの監督から、「なんか知らない人から連絡がきて日本人が練習参加に来ると聞いてました。今日だけ練習試合参加してみてください。」と言われました。
全く聞いていた話と違いました。
でも自分のパフォーマンスを見せるしか無い。
全力でプレーして自分としてはパフォーマンスも上々だったのでなんとかならないかとは思いましたが、結果は明日から来なくていいとのことでした。
後から聞くと、オーストラリア人の代表選手と契約が決まっていたそうです。
困り果て、マレーシアの1日1500円のホテルに泊まり自主トレを続けました。
そんな時、代理人から連絡が入りラオスのチャンピオンクラブがオファーしたいとの事でした。
すぐにラオスに向かい契約を待ちました。
しかし、2週間経っても練習は始まらず待機していました。
結果的にクラブのオーナーがリーグ撤退を決めたとの事でチームが消滅しました。
もう移籍期間も後わずか。
インドネシアの知人からインドネシアリーグのシーズン前に大会が行われその大会で活躍できれば年間契約ができるかもしれないという話をいただきました。
ラストチャンスでした。
契約を求めて5カ国目。
でもこの時になぜか焦りや不安よりももう最後だ、楽しもうと思えたことを覚えています。
自分のできることを自分に問い、整理してただサッカーに集中して勝つ事に喜びを感じていました。
寄せ集めのチームで決勝まで行き、キャプテンも務め、しかし決勝では怪我をしてしまい交代。
負けて準優勝となりました。
1ヶ月間の短い大会。
出会えたチームメイトともここまで仲良くなるとは。
負けて泣きました。
負けて泣いたのは高校最後の選手権以来だったと思います。
その涙には負けた悔しさと出会えた仲間と別れる悲しさがあったとおもいます。
その後パフォーマンスが認められ契約となりました。
現役生活で一番チーム探しが大変な経験でした。
その後インドネシアでは3チーム渡り歩き3年間プレーしました。
引退の決め手になった出来事が一つあります。
インドネシアや東南アジアでは八百長がよく行われます。
すごく嫌なことです。
しかし八百長が嫌ならJリーグで、もっとトップレベルのリーグでプレーすればいい。
それができない実力だからその中でも私は必死にプレーしなければならないと思っていました。
実際に私がいるチームでもおかしいと思う事がありましたし、私自身にもそのような声がけをされた事があります。
私は決して関与しませんでしたが、監督や他の選手が関与すると試合に勝つことは非常に難しくなります。
ある試合チームのオーナーから選手に話がありました。
「今日のホームゲーム、何万人ものお客さんが来ます。その中には月給一万円のタクシードライバーが千円のVIPシートのチケットを購入して来るとも聞きました。全力で応えてください。」
本当に熱い気持ちになり全力で戦おうと思いました。
しかしその試合、八百長が行われました。
私のチームは私以外2軍の選手。
審判も買収されていたそうです。
わかってはいたのですが、その時私の中でプロサッカー選手でいる糸が切れたと思います。
その年、その試合から私はパフォーマンスが低下しモチベーションもどうしていいかわからずクビになりました。
そしてサッカー選手の引退を決意しました。